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くだらない小学校のフェスティバル

 妻が小学校区の役員をしている関係で、小学校のフェスティバルに招待された。我々のときは「学芸会」と言っていたが、近年ではフェスティバルと呼ぶようになったらしい。クラス単位で劇や音楽を発表するのかと思っていたら、生徒数が少ないため2クラス合同や学年合同で出し物を披露していた。
 ワシは子供の演技を見ているうちに、何とつまらないものを見せるのかと腹立たしくなった。先生たちの企画力、構成力などまったく感じられないからである。4年生は学年合同で群読を披露した。我々が子供の頃には群読という言葉はなかったような気がする。全員である物語を音読するものだが、ただ音読するだけでは芸がないから、個人が読むところ、全員で大きな声で抑揚をつけて読むところとパートを分けている。ワシの家の近所の子供は、「おばあさんの手は皺だらけで、爪は黒ずんでいました」と言っていた。ある子は大声で「そうだ!」、これだけだった。おばあさん役、おじいさん役、イノシシ役その他の子供が、群読にあわせて無言で演技している。こういう形で1学年2クラス全員、約50名がなんらかの形で発表したことになった。
 
つぎは5年生のピーターパンだ。グリーンの衣装を着たピーターパンが中央に走り寄ってセリフを言っているが保護者の喋り声で何言っているのかわからない。ピーターパンが舞台を1周して袖に消えたと思ったら、間髪入れずにピンクのピーターパンの登場だ。おおっ、なんだこの早業。と思ったらピーターパンは別人に替わっていた。よく見ると背後の樹木役も替わっているし、インディアン、船長、妖精たちも替わっている。ピーターパンは最終的には6名で演じていた。これも全員の生徒に何らかの形で演技をさせるという教育的配慮らしい。
 
群読にしろ、ピーターパンにしろ、正直って休日の時間を割いて観覧にいく代物ではなかった。こんなフェスティバルを毎年実施する必要があるのか。学校関係者はただ義務的に行事をこなしているだけではないかとさえ思う。
 ヒーローをつくらない、主役をつくらない、全員が主役だ、発表の機会はみんなに平等にという悪しき平等主義が芸術・芸能の質を落としている。スポットライトを浴びる子供がいてもいい、工作が得意な子供には小道具作りで頑張ってもらう、歌が上手な子供にはバックコーラスをやってもらう、読書が得意のこどもにはナレーションをしてもらう、子供たちにはそれぞれの得意分野で力を発揮してもらう、これでいいではないか。全員に同じことをさせて平等を自慢しても、それ以上に個性を殺していることに教育者はなぜ気がつかないのか。いや気づいているはずだ。日教組が目指すのは中国のように、個性を認めない、独裁に忠誠を強制する全体主義教育だ。彼らが言う、平等主義、個性の尊重とは、自由主義社会の現教育制度を破壊するための方便だということを知るべきだ。
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