高田延彦よ、任命拒否の理由さっぱりわかんねーとツイートする前に、推薦理由を確かめたらどうか。
元格闘家でタレントの高田延彦が9日、ツイッターに新規投稿。静岡県の川勝平太知事が7日の定例会見で、日本学術会議の新会員候補6人の任命拒否問題について「菅義偉首相の教養レベルが図らずも露見した」などと批判したという静岡新聞の報道を引用し、「総理、やらかしちゃったな」とつづった。 川勝知事は「(総理に)任命権があり、(過去の国会答弁とは)矛盾しない」とする菅首相に対して、「言い訳にならない」と指摘。「権力が介入しては御用学者ばかりになる」と懸念し、今回の任命拒否を撤回すべきとの見解を示している。 高田は6日付投稿で、菅氏が任命拒否について「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」と説明したことに対して、「この説明じゃサッパリ分からないなー」と疑問を呈していた。
高田延彦に聞くが、学術会議会員に推薦理由知ってるか? どういう理由で推薦されて、どういう理由で推選が拒否されたのかと問うならまだましだが、推薦理由のことも知らないで、推薦が拒否された理由が、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」んじゃサッパリわかんねーとツイートするんなら、あんたこそ「教養レベルが図らずも露見した」ね。
高田は知り合いが「保証人になってくれ」と書類を持ってくれば、すぐに印鑑押すんだろうね。俺だったら、借金の相手、借金の内容など確かめて、保証人を断ることもあるけどね。
学術会議側に推薦理由を確かめたらどうか。

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高田延彦に聞くが、学術会議会員に推薦理由知ってるか? どういう理由で推薦されて、どういう理由で推選が拒否されたのかと問うならまだましだが、推薦理由のことも知らないで、推薦が拒否された理由が、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」んじゃサッパリわかんねーとツイートするんなら、あんたこそ「教養レベルが図らずも露見した」ね。
高田は知り合いが「保証人になってくれ」と書類を持ってくれば、すぐに印鑑押すんだろうね。俺だったら、借金の相手、借金の内容など確かめて、保証人を断ることもあるけどね。
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杜撰な捜査で誤認逮捕。警察、処分なし。そんなバカな。
今年1月9日、愛媛県松山市で発生した窃盗事件。タクシー内で運転手のセカンドバックと現金5万円が盗まれた。警察はほどなく松山市の女子大学生を逮捕したが、誤認逮捕だった。女子大生はタクシーの乗っていないと事件を否定したが、警察の思い込み、裏付け捜査なしに逮捕されてしまった。
この事件の調査結果が3日公表されたが、県警は、女子大学生と犯人が似ているとの主観的判断で捜査を進め、裏付け捜査を怠ったと結論づけたが、自白の強要や故意に捜査や職務を怠ったわけではないとして、関係者の処分は行わない方針という。
最近、警察の誤認逮捕がよくある、よく報道される。情報化社会になって容疑者がいろんな情報媒体で情報を発信することができるようになって、直接社会に訴えることができるようになったこと、警察側も情報を隠蔽しづらくなってきたことが根底にあると思う。誤認逮捕は昔から多く発生していると思う。それが世に出なかっただけだ。過失で誤認逮捕する場合もあり、恣意的に犯人を作り上げることもしてきたのがこれまでの警察ではないか。とくに社会的立場が弱い人がその対象にされてきたと思う。
警察は事件が発生すれば、犯人を確保することが至上命題になる。それは該当の警察署、県警の威信をかけて行われる。それを失敗すれば関連する組織の管理職はみな何らの処分がされる。それが警察組織の縦組織だ。処分されるということは、警察官および警察組織にとって最大の不名誉なことであるから、なんとしても犯人を確保しなければなならないという思いが、組織を守るという思いに変化していき、犯人をでっちあげるという暴挙にまで発展する。今回の松山の誤認逮捕。結局処分者はなし。処分者を出せば、芋づる式に上層部の責任問題に発展し、最終的には県警本部長まで上る。県警本部長は警察庁のキャリア官僚で、東京から派遣される。県警本部長を無傷で東京に戻すのがノンキャリアつまり、現地(県)採用組の使命だ。県警本部長に傷を付けると、その県は東京(警察庁)から不名誉県のレッテルを貼られ、予算の付きも悪くなる。だから現地採用組はピリピリして、最悪犯人をでっちあげることにもなり、安易な捜査で誤認逮捕につながることになる。
この事件で誤認逮捕された女子大学生は、捜査にあたった警察官個人を名誉棄損で訴えることができないのかな。これをしないと誤認逮捕は減らないと思うけどね。。

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この事件の調査結果が3日公表されたが、県警は、女子大学生と犯人が似ているとの主観的判断で捜査を進め、裏付け捜査を怠ったと結論づけたが、自白の強要や故意に捜査や職務を怠ったわけではないとして、関係者の処分は行わない方針という。
最近、警察の誤認逮捕がよくある、よく報道される。情報化社会になって容疑者がいろんな情報媒体で情報を発信することができるようになって、直接社会に訴えることができるようになったこと、警察側も情報を隠蔽しづらくなってきたことが根底にあると思う。誤認逮捕は昔から多く発生していると思う。それが世に出なかっただけだ。過失で誤認逮捕する場合もあり、恣意的に犯人を作り上げることもしてきたのがこれまでの警察ではないか。とくに社会的立場が弱い人がその対象にされてきたと思う。
警察は事件が発生すれば、犯人を確保することが至上命題になる。それは該当の警察署、県警の威信をかけて行われる。それを失敗すれば関連する組織の管理職はみな何らの処分がされる。それが警察組織の縦組織だ。処分されるということは、警察官および警察組織にとって最大の不名誉なことであるから、なんとしても犯人を確保しなければなならないという思いが、組織を守るという思いに変化していき、犯人をでっちあげるという暴挙にまで発展する。今回の松山の誤認逮捕。結局処分者はなし。処分者を出せば、芋づる式に上層部の責任問題に発展し、最終的には県警本部長まで上る。県警本部長は警察庁のキャリア官僚で、東京から派遣される。県警本部長を無傷で東京に戻すのがノンキャリアつまり、現地(県)採用組の使命だ。県警本部長に傷を付けると、その県は東京(警察庁)から不名誉県のレッテルを貼られ、予算の付きも悪くなる。だから現地採用組はピリピリして、最悪犯人をでっちあげることにもなり、安易な捜査で誤認逮捕につながることになる。
この事件で誤認逮捕された女子大学生は、捜査にあたった警察官個人を名誉棄損で訴えることができないのかな。これをしないと誤認逮捕は減らないと思うけどね。。

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毎日新聞は、都合のいい声だけを報道する。国民の声なき声を聞け!
フリージャーナリストの安田純平が解放され、無事帰国したが、ネット上では「自己責任論」や「擁護論」が賑やかだ。
マスコミは安田を英雄扱いしたいらしく、「自己責任論」の火消しに躍起になっている。今日28日の毎日新聞には、アルピニストの野口健やサッカーの本田圭佑、大リーグのダルビッシュなど世界で活躍する日本人の「自己責任論」反対論が載っていた。
ネット上の「自己責任論」の多くは、安田のとった行動に対する結果として、それが国民の共感、同情、理解が得られるかということの「自己責任論」だ。いろいろな形で海外で活躍する日本人の生き様をすべて自己責任といっているのではない。毎日新聞は作為的に、安田のとった行動に対する結果については不問にしている。
ちなみに安田がとった行動の記録がインターネット上にアップされているから以下に示す。
拘束回数:2003年イラク軍 、2003年イラク警察 、2004年バクダットで武装勢力、2015年ヌスラ戦線 (今回)
拘束前の安田のツイッター:
◆ ・・・・・・・・・・・・日本は経験ある記者がコバニ行っただけで警察が家にまで電話かけ、ガジアンテプからまで即刻退避 しろと言ってくるとか。世界でもまれにみるチキン国家だわ。
◆ ・・・・・・・・・・・・パスポート没収とか家族や職場に嫌がらせしたりとかで行かせないようにする日本政府を「自己責任なのだから口や手を出すな」と徹底批判しないといかん。
安田は過去3回も拘束され、2004年には日本政府に救出されている。そして政府の度重なる渡航自粛要請を無視してシリアに渡った。そして4回目の拘束。
こういう行動をとった安田を救出するのに、なぜ国民の税金が使われなければならないのかというのが「自己責任論」の主張だ。
毎日新聞に載った著名人のなかで、死と隣り合わせで行動しているのはアルピニストの野口健氏だけだ。アルピニストはすべて自己責任を貫徹している。死ぬか、生きて帰るか。生きて帰る時でも救出されれば、その費用は自腹、それが保険でも。日本政府に救出を頼んだとは聞いたことがない。マスコミも政府が救出しろと論を張らない。エベレストを踏破したら快挙、英雄なのに。なのになぜジャーナリストとして特筆する業績もない安田を英雄扱いし国費で救出しろというのか。安田は特別とでもいうのか。それも拘束が十分に予見でき、事前に行動を自粛するよう強く要請されていたにもかかわらず、それを無視して行動した人間に対して。
我々は、人様に迷惑をかけないようにと、小さい時から教育されてきた。それがお互いを思いやる気持ちになり今の社会を形づくっている。一方で社会には寛容も大事だ。人間は失敗もする。しかしそこから再起してそれを挽回するだけのチャンスは認めなければならないと思う。こと安田に関する「自己責任論」は、社会の寛容さをもってしても、もはや受け入れられないという国民の声だ。
毎日新聞は、国民の声なき声を聞け!

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ネット上の「自己責任論」の多くは、安田のとった行動に対する結果として、それが国民の共感、同情、理解が得られるかということの「自己責任論」だ。いろいろな形で海外で活躍する日本人の生き様をすべて自己責任といっているのではない。毎日新聞は作為的に、安田のとった行動に対する結果については不問にしている。
ちなみに安田がとった行動の記録がインターネット上にアップされているから以下に示す。
拘束回数:2003年イラク軍 、2003年イラク警察 、2004年バクダットで武装勢力、2015年ヌスラ戦線 (今回)
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◆ ・・・・・・・・・・・・日本は経験ある記者がコバニ行っただけで警察が家にまで電話かけ、ガジアンテプからまで即刻退避 しろと言ってくるとか。世界でもまれにみるチキン国家だわ。
◆ ・・・・・・・・・・・・パスポート没収とか家族や職場に嫌がらせしたりとかで行かせないようにする日本政府を「自己責任なのだから口や手を出すな」と徹底批判しないといかん。
安田は過去3回も拘束され、2004年には日本政府に救出されている。そして政府の度重なる渡航自粛要請を無視してシリアに渡った。そして4回目の拘束。
こういう行動をとった安田を救出するのに、なぜ国民の税金が使われなければならないのかというのが「自己責任論」の主張だ。
毎日新聞に載った著名人のなかで、死と隣り合わせで行動しているのはアルピニストの野口健氏だけだ。アルピニストはすべて自己責任を貫徹している。死ぬか、生きて帰るか。生きて帰る時でも救出されれば、その費用は自腹、それが保険でも。日本政府に救出を頼んだとは聞いたことがない。マスコミも政府が救出しろと論を張らない。エベレストを踏破したら快挙、英雄なのに。なのになぜジャーナリストとして特筆する業績もない安田を英雄扱いし国費で救出しろというのか。安田は特別とでもいうのか。それも拘束が十分に予見でき、事前に行動を自粛するよう強く要請されていたにもかかわらず、それを無視して行動した人間に対して。
我々は、人様に迷惑をかけないようにと、小さい時から教育されてきた。それがお互いを思いやる気持ちになり今の社会を形づくっている。一方で社会には寛容も大事だ。人間は失敗もする。しかしそこから再起してそれを挽回するだけのチャンスは認めなければならないと思う。こと安田に関する「自己責任論」は、社会の寛容さをもってしても、もはや受け入れられないという国民の声だ。
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テーマ : サヨク・在日・プロ市民 - ジャンル : 政治・経済
移民、難民の受け入れは慎重に。
東京、江戸川放水路の河川敷に大量のカキ殻が投棄され問題になっている。この場所では大潮時にカキがよく採れるということで、中国人が多数訪れ、カキを採って殻を捨てて帰るという。その量は100トンにもなり、地元が回収の対策に乗り出した。
ここでも問題を起こしているのは外国人だ。日本人の感覚からすると、外国で暮らすとなると、「郷に入っては郷に従え」で、現地法律順守はもちろんのこと、マナーや慣習にも従い、現地の人と事を荒立てないように共存しようと考える。そこには、、控えめに生活して、地元に馴染もうという気持ちと、「ここに住まわせていただいている」という感謝の気持ちがある。ところが中国人は違う。どこにいようとも中国人共同体を作るし、中国のやり方で生活しようとする。だから江戸川放水路のカキ殻投棄についても、別に悪気があってしていることではなく、中国ではごく自然の行為であり、普通の光景なのかもしれない。彼らには、住んでいる国の文化に馴染むという感覚がない。とくに華夷秩序でいう東夷の日本の文化なんか歯牙にもかけないという態度だ。日本のきまり、マナーなどおかまいなしだ。こういう考えの中国人が何百万人も日本に住むようになると日本社会はどうなるのだろうか。
同じように、今世界で問題になっている難民問題。人権問題としては同情するところもあるが、その難民が何十万、何百万と日本に押しかけ、受け入れざるを得なくなったとき、日本社会はどうなるのだろうか。現にいま、イスラム系移住者が多い自治体では、学校給食をハラール対応にせよと要求され、給食から豚肉がなくなったところも出てきている。
日本への移住者にしろ、難民にしろ、彼らには「ここに住まわせていただいている」という感覚はなく、日本人同等の待遇を要求し、なおかつ自分らの要求も認めろという態度だ。こういう人々が世界の大勢だという現実を、日本人は冷徹に見る必要がある。
人手不足だから、かわいそうな難民だからというその場しのぎの感情で受入れを決めると、日本社会そして社会規範は確実に変質する。女性が夜でも一人で歩けるくらい安全な治安、落とした財布が中身もろともそっくり戻ってくる日本、子供が一人で学校に通える日本、ごみが落ちていないきれいな道路、こんな日本は過去の話として、社会科の教科書に描かれる日が遠い話ではないような気がする。

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ここでも問題を起こしているのは外国人だ。日本人の感覚からすると、外国で暮らすとなると、「郷に入っては郷に従え」で、現地法律順守はもちろんのこと、マナーや慣習にも従い、現地の人と事を荒立てないように共存しようと考える。そこには、、控えめに生活して、地元に馴染もうという気持ちと、「ここに住まわせていただいている」という感謝の気持ちがある。ところが中国人は違う。どこにいようとも中国人共同体を作るし、中国のやり方で生活しようとする。だから江戸川放水路のカキ殻投棄についても、別に悪気があってしていることではなく、中国ではごく自然の行為であり、普通の光景なのかもしれない。彼らには、住んでいる国の文化に馴染むという感覚がない。とくに華夷秩序でいう東夷の日本の文化なんか歯牙にもかけないという態度だ。日本のきまり、マナーなどおかまいなしだ。こういう考えの中国人が何百万人も日本に住むようになると日本社会はどうなるのだろうか。
同じように、今世界で問題になっている難民問題。人権問題としては同情するところもあるが、その難民が何十万、何百万と日本に押しかけ、受け入れざるを得なくなったとき、日本社会はどうなるのだろうか。現にいま、イスラム系移住者が多い自治体では、学校給食をハラール対応にせよと要求され、給食から豚肉がなくなったところも出てきている。
日本への移住者にしろ、難民にしろ、彼らには「ここに住まわせていただいている」という感覚はなく、日本人同等の待遇を要求し、なおかつ自分らの要求も認めろという態度だ。こういう人々が世界の大勢だという現実を、日本人は冷徹に見る必要がある。
人手不足だから、かわいそうな難民だからというその場しのぎの感情で受入れを決めると、日本社会そして社会規範は確実に変質する。女性が夜でも一人で歩けるくらい安全な治安、落とした財布が中身もろともそっくり戻ってくる日本、子供が一人で学校に通える日本、ごみが落ちていないきれいな道路、こんな日本は過去の話として、社会科の教科書に描かれる日が遠い話ではないような気がする。

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日本における難民受入れ問題。
3月15日の産経ニュースに難民問題で考えさせられる記事が載っていたので引用する。
「オランダは寛容の国じゃないよ、無関心なんだ」 「寛容の国」で反移民が力を得るわけ 「寛容? そうじゃなくて無関心さ」。15日に行われるオランダ総選挙の事前取材でハーグを訪れた際、識者に聞いた一言に「ドキッ」とさせられた。オランダも含め欧州では反移民などを主張する大衆迎合主義(ポピュリズム)的勢力が台頭する。だが、同性婚の合法化などで世界に先駆け、大麻も一部公認するなど、個人の権利を重んじる「寛容の国」で、なぜ難民・移民に“非寛容”な主張が支持をえるのか。それが関心の一つだった。識者の見解では、オランダ人がドイツ人やフランス人に比べ、決して寛容なわけでない。「同性愛者が通りで手をつないでも、誰かが大麻を吸っても、自分には関係なく、気にしない」だけだという。だが、移民問題は事情が異なるようだ。「自分の庭に外からボールが飛び込んできたら大変でしょ?」と識者は語る。考え方や文化が異なる人々が増え、一定の政治的影響力も持てば、自国の伝統文化や法律も変えられるかもしれない。自身に関わる「脅威」に「無関心」ではすまない。識者は「どの国でも同じことは起きる」とも。滞在歴の長い現地邦人の話では、同性婚も身内のこととなれば、家庭内の議論になるともいう。「寛容」は「無関心」と紙一重なのか。複雑な思いを抱いた。(宮下日出男)
日本は移民や難民の受け入れに厳しい、もっと受け入れるべきだなどとマスコミは言うが、彼らを寛容に受け入れてきた結果が今のヨーロッパの状況であるわけで、イギリスがEUから離脱するのもこれが原因だ。だから日本はこのことを学習しなければならない。しかし、一部の国民に「無関心」が見られるのは、上の識者の言葉を借りれば「脅威」になる。かつて小泉政権時代に国対委員長を務めた中川秀直は「移民1000万人受け入れ」を主張していたと思うが、こうなれば日本の国柄は変わってしまう。つまり日本文化、日本人の宗教観および思考、社会規範など根本から変わってしまうということだ。そういう社会を日本人が望んでいるとは思えないのだが、リベラルと言われているいわゆる左翼の識者やマスコミは、そういう社会にもっていきたいようだ。
彼らには確固たる意思がある。それは日本の国体を破壊させること、つまり天皇家を廃絶させることだ。そして日本を社会主義、共産主義社会に転換させることが左翼の究極の目的だ。
ある時、テレビで日本に住むロヒンギャの人々を特集していた。ロヒンギャとは、ミャンマーのバングラディシュ国境付近に住むイスラム教徒だが、元来から仏教徒との宗教的争いあり、現在ではミャンマーからも国籍を剥奪されている無国籍民だ。彼らは迫害を逃れ国外へ脱出しているが、その一部が日本に難民として入国している。そのある難民家族にスポットをあて、難民問題を論じていた。その家族には小・中学校に通う子供もおり、日本社会に馴染もうと真摯に生活している姿には心を打たれた。そういう姿を見ると、日本人として何とか力になれないか、彼らが安住できるようにならないかと思ったりする。しかしその一方でヨーロッパにおける難民問題の現実。
いまの日本人は、難民問題に関して「寛容」な態度を示しているが、それは「無関心」の表れでもある。それがいずれ「脅威」になるという現実にはまだ気がつかないのだろうが、この問題を人権問題に切り替えて難民受け入れを推進させようとする勢力が、虎視眈々と機会を窺っていることを肝に銘ずべきと思う。

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「オランダは寛容の国じゃないよ、無関心なんだ」 「寛容の国」で反移民が力を得るわけ 「寛容? そうじゃなくて無関心さ」。15日に行われるオランダ総選挙の事前取材でハーグを訪れた際、識者に聞いた一言に「ドキッ」とさせられた。オランダも含め欧州では反移民などを主張する大衆迎合主義(ポピュリズム)的勢力が台頭する。だが、同性婚の合法化などで世界に先駆け、大麻も一部公認するなど、個人の権利を重んじる「寛容の国」で、なぜ難民・移民に“非寛容”な主張が支持をえるのか。それが関心の一つだった。識者の見解では、オランダ人がドイツ人やフランス人に比べ、決して寛容なわけでない。「同性愛者が通りで手をつないでも、誰かが大麻を吸っても、自分には関係なく、気にしない」だけだという。だが、移民問題は事情が異なるようだ。「自分の庭に外からボールが飛び込んできたら大変でしょ?」と識者は語る。考え方や文化が異なる人々が増え、一定の政治的影響力も持てば、自国の伝統文化や法律も変えられるかもしれない。自身に関わる「脅威」に「無関心」ではすまない。識者は「どの国でも同じことは起きる」とも。滞在歴の長い現地邦人の話では、同性婚も身内のこととなれば、家庭内の議論になるともいう。「寛容」は「無関心」と紙一重なのか。複雑な思いを抱いた。(宮下日出男)
日本は移民や難民の受け入れに厳しい、もっと受け入れるべきだなどとマスコミは言うが、彼らを寛容に受け入れてきた結果が今のヨーロッパの状況であるわけで、イギリスがEUから離脱するのもこれが原因だ。だから日本はこのことを学習しなければならない。しかし、一部の国民に「無関心」が見られるのは、上の識者の言葉を借りれば「脅威」になる。かつて小泉政権時代に国対委員長を務めた中川秀直は「移民1000万人受け入れ」を主張していたと思うが、こうなれば日本の国柄は変わってしまう。つまり日本文化、日本人の宗教観および思考、社会規範など根本から変わってしまうということだ。そういう社会を日本人が望んでいるとは思えないのだが、リベラルと言われているいわゆる左翼の識者やマスコミは、そういう社会にもっていきたいようだ。
彼らには確固たる意思がある。それは日本の国体を破壊させること、つまり天皇家を廃絶させることだ。そして日本を社会主義、共産主義社会に転換させることが左翼の究極の目的だ。
ある時、テレビで日本に住むロヒンギャの人々を特集していた。ロヒンギャとは、ミャンマーのバングラディシュ国境付近に住むイスラム教徒だが、元来から仏教徒との宗教的争いあり、現在ではミャンマーからも国籍を剥奪されている無国籍民だ。彼らは迫害を逃れ国外へ脱出しているが、その一部が日本に難民として入国している。そのある難民家族にスポットをあて、難民問題を論じていた。その家族には小・中学校に通う子供もおり、日本社会に馴染もうと真摯に生活している姿には心を打たれた。そういう姿を見ると、日本人として何とか力になれないか、彼らが安住できるようにならないかと思ったりする。しかしその一方でヨーロッパにおける難民問題の現実。
いまの日本人は、難民問題に関して「寛容」な態度を示しているが、それは「無関心」の表れでもある。それがいずれ「脅威」になるという現実にはまだ気がつかないのだろうが、この問題を人権問題に切り替えて難民受け入れを推進させようとする勢力が、虎視眈々と機会を窺っていることを肝に銘ずべきと思う。

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