FC2ブログ
  1. 無料アクセス解析

モンスターペアレント化する市民。

 今日は身近な話題を書きたい。ワシが住んでいる団地には歩道に桜の街路樹がある。樹齢30~40年位経っていると思う。この団地ができてしばらくして植樹されたというからこのくらいの年月は経っているのだろう。春になると団地内の幹線道路が桜満開で、実に綺麗で通行する人の目を楽しませてくれる。毎年この時期を楽しみにしている。ところが、9月から10月にかけて、幹線道路の歩道の桜が、団地内全区間にわたって、撤去されてしまった。どうしてかと家内に聞けば、歩道を通る住民から、雨の日など傘をさして通行するときに桜の木が邪魔になり、歩道を通行できない。その間車道に出て回らなければならないので危険だと役場に苦情があったという。
役場はこの苦情を受け、歩道の桜を全部撤去したというものだ。ワシはどこか割りきれない気持ちだった。確かに幅2mもない歩道だ。その真ん中に桜が植わっている。傘をさしたまま通ることはできない。しかし、傘を斜めに倒せば通れるし、車道の安全を確認してそこだけ車道を通ればそれですむ話だ。こういう小さな煩わしさよりも、桜の花を愛でることができない不憫さのほうがワシには大きな問題だ。町は、桜の街路樹を撤去するのに反対の意見は出なかったのか。桜を残す方向で、歩道の通行障害を軽減する方策は検討されなかったのか。家内の知り合いの町会議員に話を聞いても、何もわからなかった。おそらく、何の検討もなしに、苦情を無批判に受け入れて桜の木の撤去工事を発注したようだ。それには「安全」と「責任」という呪文にも似た判断が関わっている。つまり、歩道の通行者が、歩道上の桜の木を避けて、車道に出ようとして交通事故に遭ったら、被害者から町が、歩道の管理責任を問われ、裁判になることを恐れているからである。裁判になればおそらく町は負ける。だから、事件が起こらないうちに、その原因をいち早く撤去しようということだ。行政のそういう判断には、自然を愛するという姿勢が感じられないし、住む人の情緒を大事にするという町づくりの姿勢が欠如している。インフラなどの都市施設は単に機能だけを満足させていれば、行政の責任は問われることはないという無責任主義に陥っている。それには住民のわがままも大いに関係している。
歩道に桜の木があり、傘をさしながら通ることができなければ、傘を斜めに倒し、または傘を少し畳んで通れば済むことだ。その間、少し雨に濡れるかもしれないがそのくらいの我慢が何故できない。車道に出て回ろうとするならば、左右を見て、道路の安全を確認して出ればいいだけのいことだ。これら何でもないことを自らせずに、行政に要求だけはする人間が何んと多いことか。これも戦後教育の弊害と思う。行政にも確固とした信念がないことが、この風潮を助長させていると思う。
 「安全のため」といわれればもう何も言えなくなる。「安全のためこうしてもらいたいとお願いしているんですが、町ができないというなら、それはそれでいい。しかし、もし事故が起こったら誰が責任をとってくれるんですか。」 これが殺し文句だ。言い方は悪いが、ヤクザの恐喝みたいなものだ。モンスターペアレントという言葉がはやって久しいが、それだけに留まらず、日本国民全体がモンスターシティズン化しているような気がする。こういう社会を我々は求めていないはずだが・・・・・。
にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村


社会・政治問題 ブログランキングへ

スポンサーサイト



テーマ : 日本を憂う - ジャンル : 政治・経済

差別を断罪するなら、身内から始めよ!

 今や世界は「差別」の大合唱だ。アメリカの黒人男性の逮捕、死亡に始まり、東京オリンピック大会組織委員長、森喜朗の女性蔑視発言、イギリス王室ではメーガン妃が黒人差別的発言を受けたと主張。東京五輪・パラリンピックの開閉会式では、企画、演出の統括役を担うクリエーティブディレクターがタレントの渡辺直美の容姿を侮辱する演出を提案した問題で辞任。またテレビのワイドショーではアイヌの人への差別発言と、最近、差別ニュースは事欠かない。
 差別が、許されることではないことは、誰もが認めることではあるが、差別は我々の身近に存在する。テレビの中だ。お笑い芸人が出るバラエティー番組がそれだ。容姿をけなし、笑いのネタにして番組が成立している。「ブス」という言葉は当たり前のように使われているし、その言葉を使わないまでも、顔の特異性をちゃかしたりして笑いをとる。顔だけではなく体つきも同様に、動物に例えて表現する。またその体つきを見て、「肉の塊、グラム100円」、「そんなに安いんかい!」などと切り返す。そしてこのようなバラエティー番組を見て、多くの国民が笑って、高視聴率をとっている
 今の風潮で差別を断罪するのであれば、こういう番組での発言、表現も同様に断罪されるべきだ。芸人だから許されるという問題ではない。マスコミは差別問題を政治ネタにして、政府追及のツールとして使っているような気がするが、身内のテレビでの差別発言には甘い。これをあまり言い過ぎるとバラエティー番組が成り立たなくなるのか。芸人が失業するとでも言うのか。
 マスコミよ、まずは身内から差別根絶に取り組みなさい。
にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村


社会・政治問題 ブログランキングへ

テーマ : 報道・マスコミ - ジャンル : 政治・経済

「差別発言だ!」は、水戸黄門の印籠か?

 昨年の12月、ヨーロッパプロサッカーリーグの試合で、審判の人種差別的発言をめぐって、試合が打ち切られたことがあった。
 レッドカードを受けたチームコーチを、ある審判が主審に「あの黒人」と伝えたことで、両チームの選手が抗議して引き揚げた。この審判は今季終了まで資格停止処分にされている。欧州サッカー連盟(UEFA)は人種差別ではなかったと結論付けたが、不適切な言動だったとして処分を科した。
 最近、「もの言えば くちびる寒し 秋の風」ではなく、「もの言えば くちびる寒し 差別発言」の様相を呈してきた。人の発言に敏感になり、「差別発言」として事を大きくしよう、問題化しようという恣意的な動きが感じられる。
 差別とは無縁の人間の何気ない言葉に、差別を感じる人がいるのは事実だし、言葉遣いには注意が必要だが、本人には差別意識がないにも関わらず、ある言葉だけに焦点をあてて差別を叫ぶ風潮には同意できない。その言葉を捉えて差別発言だと糾弾する前に、「その言葉遣いはよくありませんね。不適切ですよ。」と、にっこりして言ってもらった方がワシは心に響く。「これから気を付けなくっちゃ」となる。
 こんなことを言うと、それは差別されたことがない人間が言う言葉であり、差別された人の気持ちが分からない人間と烙印を押される。そう言われると、二の句がでない。水戸黄門の印籠の前に、「ははー」と平伏すように、差別発言の指摘に「ははー」と黙り込むしかない。
 どのような場合でも、差別発言は容認できないし、ことによっては糾弾されてしかるべき発言もある。しかし、人の心の寛大さというか、寛容さというものが世界的に薄れてきた時代になってきたのかなという思いもある。
 人の生活が金に縛られ、ギスギスした社会環境が気持ちの余裕を奪っているのかもしれない。
にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村


社会・政治問題 ブログランキングへ

テーマ : 私の見解 - ジャンル : 政治・経済

自民、衆院宮城5区で女優 森下千里擁立へ。 立民安住を落としてしまえ!

 自民党宮城県連が、次期衆院選の宮城5区に元タレントの森下千里氏(39)を擁立する方針を固めたことが8日、分かった。
 ワシは昔は、知名度だけで芸能人を国会議員に擁立する姿勢が大嫌いだった。自民党も落ちたなと思ったもんだ。しかし、自民党の三原じゅん子議員を見て考えが変わった。不良っぽいアイドル歌手が、いまや堂々とした政治家、国会議員に成長している。見た感じ男勝りで、堂々とした口調もいい。ワシは三原はいずれ要職に就く玉と思っている。このような女性議員なら出身母体は関係なく、どんどん出てきてほしい。
 森下千里は、元レースクイーンで、女優だったことくらいしか知らない。何回かテレビのバラエティ番組で見たことがある。活発なタレントだなと思った。自民支部の面接を経て、適任だと評価されたことを考ええると、この選挙区は面白い戦いになりそうだ。同区では立民の国対委員長安住淳が立候補を予定している。できれば安住の票を食って、安住を落選させてほしいと思う。
 芸能人が国会に出ると、我も我もとこれに続くタレント・芸能人が出てくる。ラサール崩れ、元プロレスラー、お笑い芸人など、よくツイッターで政治を批判する人間は要注意だよ。
にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村


社会・政治問題 ブログランキングへ



テーマ : 低レベルの国会議員 - ジャンル : 政治・経済

江戸時代、明治~昭和初期の女性も絶叫して物を言っていたのか。

 最近、テレビドラマを見ていて、ちょっと違和感を感じることがある。ワシはテレビドラマはほとんど見ないのだが、かみさんが良く見ていて、居間のテレビが付いているので、意識して見なくても、テレビの画面や声が目、耳に入ってくる。
 そこで、気になるシーンは、言い合ったり、反論したり、詰問したりする時に、ほとんどが絶叫に近い形で物を言うことだ。それは男、女関係ない。現代ドラマでも、近現代ドラマでも、時代劇でも同じ傾向がある。
 ワシらが子供時代、1980年頃まではこういうシーンを見なかったように記憶している。アメリカの映画やテレビドラマでは、女性が大声張り上げて男を罵ったり、口論するシーンはよく見るし、見ていた。子供ながらに「アメリカの女性は強いなー、怖いなー」と思ったもんだ。こういうシーンを民放のトレンディードラマが取り入れ一般化したような気がする。
 この前、朝の昭和初期を舞台にしたテレビドラマで、女主人公が金切り声で絶叫し、男定員と口論しているシーンがあったが、当時の女性像として時代考証的に正しいのか。先にも書いたが、ワシが子供時代のテレビドラマにはなかったシーンだ。
 男も女も、いろんな性格の人間がいる。絶叫して怒りをぶちまける女性がいても不思議ではない。そういう女性にスポットを当てて、ドラマ化するなら、それはそれで意味あることで、面白いと思う。しかしそうでないのなら、ドラマの背景にある時代の社会像、社会通念、価値観、男女像などは忠実に描画してもらいたいと思う。女性がつつましく男に使われるというシーンを描くことが、女性蔑視になるという批判を怖れているのならそれは間違いと思う。歴史は今の基準を当てはめて評価してはいけない。時代を忠実に再現するというのもドラマの役目ではないか。
にほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ
にほんブログ村


社会・政治問題 ブログランキングへ


テーマ : 私の見解 - ジャンル : 政治・経済